雅楽とは

雅楽は、今から1600年〜1200年ほど遡った頃、アジア諸国(中国、インド、ベトナム、朝鮮半島、渤海など、さらにはシルクロードの西方)から日本に伝わった音楽を元に、奈良時代、平安時代の国風文化にかけて、日本独自の音楽、舞として成立し、現在にまで生きた音楽として伝承されております

世界最古のオーケストラ「管絃」

「管絃(かんげん)*1」とは、管楽器(吹物)、絃楽器(弾物)、打楽器(打物)から構成される演奏の名称であり、元々雅楽用語でした。明治時代に西欧音楽「オーケストラ」が日本に入ってきたことより、雅楽用語の「管絃楽」が「オーケストラ」の日本語訳として使われました。

 「オーケストラ」と言えば、歴史ある西欧のオーケストラではありますが、西欧オーケストラの起源は、イタリアのヴェネツィアで16世紀中頃〜17世紀中頃(今から約500年昔)にルネッサンス音楽、バロック音楽を起源として成立したと考えられています。元はこれらヴェネツィア楽派の大規模な教会音楽や、オペラの伴奏として、その後コンサートホールでの演奏を通じて数多くの絃楽器を用いて演奏される現代に至っております。

 一方、日本の「オーケストラ」である「管絃」は、奈良時代以前に日本に伝来し、平安時代において、おおよそ今の形を成し、現代に伝わっている為、千数百年を超える歴史があります。あの源氏物語に出てくる楽器、正倉院に保管されている楽器は、今現在でも演奏されているのです。
* 1 雅楽で用いる管絃は、管(笙、篳篥、龍笛)、両絃(楽琵琶、楽箏)、三鼓(楽太鼓、鉦鼓、鞨鼓)から構成されます。

The Metropolitan Museum of Art, Public-domain. 2015_300_27ai_Burke_website.jpeg
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生きた音楽「雅楽」

 日本の雅楽はどのような歴史を辿ったのでしょうか?

 古代中国では、殷の時代(紀元前17世紀〜紀元前11世紀)に日本の「雅楽」に影響を及ぼしたと考えられる楽器と演奏の先祖となるものが出来てきたと考えられています。後に、インド、ペルシャ、仏教、イスラームの影響など音楽の国際的影響を受けつつ、唐の時代(〜9世紀)に中国の宮廷音楽(中国における「雅楽」)が最盛期を迎えました。この時代(日本では特に奈良〜平安時代)にかけて、日本と唐、朝鮮半島との結びつきにより、日本に伝わり、日本古来の(上代以前から伝わる)音楽や舞と結びつき、さらに平安時代の国風化の中、「雅楽」が形成されました。この時代、日本に伝わった楽器は「正倉院」に保管されていますが、現代の雅楽では演奏されない楽器も数多く収蔵されております。中国では、五代の戦乱期での衰退、宋代による復興、モンゴル帝国による征服、漢王朝の明代による中国における「雅楽」の復活などを様々な変遷を経ましたが、中華民国の樹立により中国宮廷音楽「雅楽」は消滅しました。中国は国際的な戦争と復興、音楽的影響、融合の中で、その形を大きく変え、宮廷音楽の消滅に至ります。

 日本における雅楽は、先に述べました通り、日本古来の音楽、舞に、アジア諸国の音楽、舞がシルクロードを経て日本に伝わり、平安時代の楽制改革と、編曲、楽曲の整理、平安貴族の作曲と国風化の中で、日本独自の音楽を作り、現代に至る雅楽の大凡の形が作られたと考えられています。応仁の乱による存続危機的な状況もありましたが、楽家と呼ばれる雅楽を伝承する家々で脈々と継承され続けてきました。江戸時代にはすでに各楽家、楽所、寺ごとで、同じ楽曲でも様々な解釈が生まれていた雅楽でしたが、明治時代に入り、政府の東京への招集によって、雅楽局(のちの宮内省雅楽部であり、現在の宮内庁式部職楽部)にて、演奏楽曲の統一化「明治選定譜」と舞の振り付けの統一化が行われました。一時は千曲以上もあったと言われる雅楽曲ですが、多くの廃絶と「明治選定譜」の統一化もあり、現代では百曲ほどの伝承となっております。時代を経て、演奏される楽曲は少なくなったり、幾分の変遷を経たものの、千数百年昔の貴族達が演奏した楽曲を数多くの雅楽を愛する、伝承してきた方々のおかげで、今現在でも「生きた音楽」として演奏することのできる世界でも稀有な音楽遺産なのです。

あの有名人に縁のある「舞楽」

聖徳太子ゆかりの曲

舞楽の中に「蘇莫者」という曲がありますが、「教訓書」(1233年)によると、聖徳太子が山で笛(尺八)を吹いていたところ、猿の姿をした山の神が笛の音色を聞きつけて現れて、舞ったと言われております。平安初期の古い蘇莫者図でも蓑を着ており、現代の舞楽でも同様の装束を着て舞われます。正倉院では一角の鬼の面もあり、一説には鬼であったという説もあります。この曲は聖徳太子ゆかりの四天王寺で代々受け継がれ、近年では各地で舞われるようになりましたが、かつては薗家秘伝の舞で、四天王寺以外ではなかなか見ることができませんでした。

蘇莫者

聖武天皇と東大寺と雅楽

聖武天皇は仏教に深く帰依し、東大寺盧舎那仏像の造立の詔を出したことはよく知られています。その東大寺大仏開眼供養(752年)には、林邑楽(ベトナムから伝わった雅楽)の「抜頭」「菩薩」「陪臚」が演奏されています。抜頭と陪臚は今でもよく演奏される雅楽の人気舞楽曲です。(下記画像は舞楽曲「陪臚」)

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源氏物語に出てくる曲

「青海波」という「舞楽」で演奏される曲がありますが、源氏物語の紅葉賀では、中将の光源氏とライバルでもある頭中将の二人が帝と藤壺の前で青海波を舞う場面が登場します。鳥甲を被って舞うのですが、身分の高い方が舞う際には、鳥甲ではなく紅葉や菊を差した冠で舞われたと言われております。

 他に須磨に流された光源氏が、明石の入道を訪ねます。明石の入道には美しい娘がおり、荒波の音が聞こえる中、箏で催馬楽の「伊勢の海」という楽曲を演奏する場面が出てきます。催馬楽は平安時代に盛んに演奏されましたが、残念ながら一度は廃絶し、江戸時代初期(徳川家光の時代)に復興された曲です。(下記画像は源氏物語に出てくる舞楽曲「青海波」)

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あの歴史的人物も愛した「雅楽の楽器」

龍笛

牛若丸こと源義経が所有していた笛は龍笛であったことは有名です(笛の銘は「薄墨(うすずみ)」)。また時代同じく、平家物語に出てくる平敦盛は戦場にも龍笛を肌身はなざ持ち歩き、また笛の名手として有名でした(笛の銘は「小枝(さえだ)」)。この二人が愛用したと言われる龍笛は今でも現存しています。(下記画像は「龍笛」イメージ写真)

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室町幕府の初代征夷大将軍である足利尊氏ですが、雅楽の笙を豊原龍秋に師事し、後醍醐天皇の御前でも笙を演奏したと記録されています。後の足利義満なども足利尊氏の影響を受けてなのか、笙を学んだと言われております。また平安時代の天皇の帝器といえば、箏、笛、琵琶でしたが、鎌倉期以降は笙が帝器として主流になりました。

篳篥

平安時代中期の貴族、源博雅は多くの雅楽曲を作曲し、今に残したと言われております。現在の雅楽演奏では用いられていませんが、大型の篳篥「大篳篥」を最も得意とし、箏、琵琶、和琴など多くの楽器の名手であったと言われております。「古今著聞集」の中では、博雅が家に帰ったところ、泥棒が篳篥一つを置いてみな盗んでしまっていました。篳篥を手に取り、吹いていたところ、その音色を聞いて心を打たれた泥棒が盗んだものを全て返しに来たという逸話があります。また龍笛の名手でもあり、「十訓抄」の中では、月夜の中で鬼と笛を交換したという逸話もあります。